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2024年は「金日成死去から30年」 ソ連の衛星国から始まった北朝鮮政権の歩み(1)


金日成死後30年 北朝鮮の過去と現在と未来(1)





















カン・インドク 前統一部長官





金日成が死んでから30年が経った。解放後約80年間、南北関係を「統一を志向する過程で形成された特殊関係」という歴史認識で金日成の北朝鮮と接し、彼が残した政治的遺産を検討しながら統一に向けた明日を準備してきた。しかし、今後もはたしてこのような観点から北朝鮮に対応できるのかという疑問を提示する時が来たようだ。こうした観点から金日成の49年間の政治軌跡を検討し、これが後代にどのように継承されたかを見て、北朝鮮の未来を展望してみようと思う。



スターリンから北朝鮮の首領の任命書を受け取った金日成


周知のとおり、金日成という存在は解放直後はまったく知られていなかった。日本統治の36年間、国内外で展開した抗日独立運動で頭角を現した人物でもなく、1920年代の過酷な日本の弾圧に抗議した朝鮮共産主義運動の主要人物でもなかった。



金日成が解放後2か月で突然偉大な抗日闘争の英雄として紹介されたのは、ひとえに第二次世界大戦終結後、満州と韓半島の38度線以北地域を軍事的に占領したソ連によるものだ。当時クレムリンの首領スターリンは、この機会を利用して帝政ロシア時代からの願望でもあった極東地域での不凍港の確保とアジア太平洋への進出、この地域の覇権掌握という壮大な陰謀を企てた。



1945年9月、イギリスのロンドンで開催された戦後賠償問題を協議した3か国(米・英・ソ)外相会議で、モロトフ・ソ連外相は「日本領土である北海道の半分と日本に対する軍政参加」を要請した。しかし、スターリンの陰謀を十分に把握していた米英両国はその場で拒否した。このニュースを聞いたスターリンは、平壌に位置するソ連軍25軍司令部の政治委員スティコフ(北朝鮮駐在初代ソ連大使)に即座に北朝鮮にソ連の衛星国(傀儡政権)樹立に着手するよう命令した。スティコフは9月19日、貨物船ブカチョフ号で元山港に入った、ソ連極東軍司令部傘下の88特殊旅団(対日諜報作戦部隊)所属で対日諜報作戦に動員されていた金日成一行(男女60人余)と、ソ連占領軍の民政担当要員として入った400人余のソ連国籍朝鮮人を召集し、スターリンの命令遂行に着手した。



ソ連の衛星国家戦略は、1919年レーニンが創設した「コミンテルン」(共産主義インターナショナル)が1928年7月と9月の第6回大会で決議した「植民地・半植民地国家での革命運動に関するテーゼ」を基準として、朝鮮人を前面に立てて衛星国建設を促進するというものだった。



東ヨーロッパでの人民政権樹立過程と類似した方法を選んだのだ。まず10月10日から3日間「朝鮮共産党北部朝鮮責任者および熱誠党員会議」を召集して共産党を組織(再建)し、彼らにいわゆる「ブルジョア民主主義革命」を推進させることにした。この会議で共産党組織を確定すると、スティコフは翌日の10月14日、平壌牡丹峰競技場で開催された「ソ連解放軍歓迎平壌市大会」で金日成(本名金成柱〈キム・ソンジュ〉)を偉大な抗日運動の英雄金日成将軍として紹介し、彼に自身の所信を表明する演説をさせた。もちろんソ連占領軍所属の朝鮮人が作成した演説文だったが、この時初めて平壌市民は金日成の存在を知ることになった。



1945年10月14日、平壌で開催された「ソ連解放軍歓迎平壌市大会」に参加した金日成の姿。ソ連軍によって企画・演出されたこの日の行事で、金日成は初めて自身の存在を平壌市民に知らせた。/メディア韓国学



ソ連軍は10月28日、これらの北朝鮮共産党を「過渡的形態の統一戦線政権」として北朝鮮5道行政府を発足させ、権力掌握に着手した。11月に入ると、ソ連軍司令部傘下に「鉄道保安隊」と「保安隊訓練所」を、そして11月1日には88旅団出身(金策)が指導する「平壌学院」を創設し、共産党幹部とまもなく養成される北朝鮮軍指揮官の養成に着手した。



しかし、北朝鮮駐留ソ連軍とその朝鮮人腕章部隊である共産党員たちの横暴に激怒した北朝鮮人民と青年学生たちの激しい抵抗に直面した。1945年11月18日の平北龍岩浦学生事件、ついに11月23日には3万5,000人が参加した新義州反共学生デモが起きた。



すると、ソ連軍と共産党員は航空機と戦車を動員してこれらのデモを武力で鎮圧した。この時、ソ連軍の銃撃で23人が死亡し、700余名が負傷。これを機に教会の牧師と民族・民主人士の大々的な逮捕が行われ、数十名の青年学生デモ参加者がシベリア流刑に処された。さらには、1945年12月27日モスクワで開催された米英ソ3カ国外相会議が「朝鮮に対する4年間の信託統治を決定した」というニュースが伝わると、趙晩植(チョ・マンシク)をはじめとする民族勢力の激しい反対運動が起こり、これにより趙晩植は拘禁され、他の民主人士たちは南朝鮮に逃避し、北朝鮮内の反共民主化勢力は一挙に崩壊した。



翌年の1946年2月8日、金日成一党はクレムリンの戦略通り、朝鮮人が主導する形式のソ連の傀儡政権である「北朝鮮臨時人民委員会」を組織し、同日、共産党の武力である人民軍が創設された。



金日成はこの人民委員会の名でいわゆるブルジョア民主主義革命の始まりといえる土地改革法令(3月5日)、労働法令(6月24日)、男女平等権法令(7月30日)、産業国有化法令(8月10日)などを公布し、共産党の支配基盤を強化。11月3日には「道・市・郡人民委員会代議員選挙」を実施し、立法機関を設置した。翌年の1947年2月17日、「北朝鮮臨時人民委員会」が北朝鮮の最高主権機関である「北朝鮮人民委員会」として発足し、その委員長に金日成が任命された。



これにより金日成は名実ともにスターリンの忠実な部下として、その指示に従ってソ連の東アジアでの覇権掌握のためにクレムリン宮殿が作成した戦略の執行者として、反民族的・反人民的犯罪を恐れることなく展開することになった。



この回了/続く




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