制度化される競争、制度なき対立: 日中対立の長期化と韓国の役割の再定義
金承賢(キム・スンヒョン、高麗大学)
2026年5月、東アジアで二つの首脳会談が開かれた。14日と15日、トランプ米大統領は9年ぶりに中国を訪れ、北京で習近平国家主席と向き合った。その4日後の19日、安東では李在明大統領と高市早苗首相が会談した。前者において米中は「建設的戦略安定関係」と3年間の戦略的安定の枠組みに合意した。後者において日韓は信頼構築とシャトル外交の継続を確認した。いずれも劇的な突破口ではなかった。しかし双方とも、対立を管理するという手続きを残した。
その間に、日中だけがない。2025年11月の高市首相の国会答弁以降、首脳間の対話も、東京—北京フォーラムに代表されるトラック2も、人的・文化交流も相次いで止まった。実務協議は接点のないまま空転している。8か月目である。
米中が5月に作り出したのは、対立の解決ではなく対立の管理装置、いわば「管理された戦略競争」の手続きであった。常設の協議チャネル、3年単位の安定の枠組み、9月の習主席訪米へと続く首脳外交の日程表。対立は少しも解消されていない。ただ、それが制御不能に陥らないよう繋ぎ止める手続きが生まれた。
日中にはその手続きがない。2026年2月の衆議院総選挙で自民党が圧勝したことにより、中国の圧力はかえって高市政権の基盤を強化する逆効果をもたらした。対立は偶発的な事件から長期的な構造へと固着した。
そして、米中の安定化は日中には波及しない。米国が中国との関係を「管理」することを選んだ以上、日中対立に介入する誘因はむしろ減少する。トランプ大統領は習主席から台湾問題に関する強い警告を受けた後も、140億ドル規模の台湾向け武器売却の承認を決定しないまま北京を後にした。日中対立はもはや、大国政治が解決してくれる問題ではなくなったのである。
日中対立の構造的性格
日韓の間にも、歴史と領土をめぐる認識の隔たりは厳然と存在する。それでもその対立が安全保障の領域に溢れ出さないのは、両国の善意のためではない。首脳間のシャトル外交から外交・防衛当局間の協議、情報共有の枠組み、市民社会の交流に至る多層のチャネルが積み重ねられているからである。一つが塞がっても、別の一つが開いている。事件は事件として処理され、安全保障の議題へと転移しない。
日中の間には、その蓄積がない。正確に言えば、チャネルは存在するが機能しない。海空連絡メカニズムとホットラインは設置されているが、政治的決断が求められる局面で機能した事例は確認されていない。そして、海上での偶発的衝突を規律する規範は、そもそも存在しない。
制度の密度が低いほど、個別の事件が安全保障問題へと転換する速度は速くなる。緩衝する手続きがなければ、一つの発言が直ちに国家の存立問題へと翻訳され、一隻の漁船をめぐる摩擦が直ちに主権の試金石となる。

対立の三つの層位
第一に、法制の層位である。2025年11月7日の衆議院予算委員会において、高市首相は中国による台湾への武力行使が日本にとって「存立危機事態」となり得ると答弁した。周知のとおり、存立危機事態とは2015年の平和安全法制が導入した概念であり、日本が直接攻撃を受けていない状態で集団的自衛権に基づく自衛隊の武力行使を可能にする法的範疇である。宣言ではなく、スイッチなのである。
したがって、答弁の重みは介入の意思表明にあるのではない。台湾海峡がそのスイッチの適用対象となり得ることを、スイッチを握る当事者が国会答弁という公的形式で確認した点にある。中国が謝罪ではなく発言の「撤回」を要求した理由もここにある。謝罪は感情の問題だが、撤回は法制の問題である。そして首相が撤回に応じないのも、政治的な意志というより法制の論理上の帰結に近い。答弁を撤回すれば、存立危機事態の適用範囲そのものが狭まりかねないからである。
第二に、構造の層位である。日中対立は米中戦略競争の下位構図として発生した。台湾海峡をめぐる米中の対立がなければ、一国の首相の国会答弁の一行がこれほどの波紋を呼ぶことはなかったであろう。中国が台湾問題について警告した相手は日本ではなく米国であり、米国が回答を留保した案件もまた台湾であった。日本は対立の最前線に立ちながら、対立を管理するテーブルには着いていない。
第三に、手段の層位である。中国の対応は軍事ではなく経済と文化に集中した。渡航自粛、水産物輸入の停止、レアアース審査の厳格化、コンテンツ規制。低コストで、可視性が高く、いつでも撤回できる。経済的威圧はそれ自体が自己制限的であり、これは逆説的に、中国が軍事衝突を望んでいないことの傍証でもある。しかし、意図が統制されていることと、危険が統制されていることは、全く別の問題である。
去る7月7日、中国海警船が尖閣諸島周辺の海域で操業中の日本漁船に接近し、7時間にわたり対峙した。中国は「不法進入した外国漁船に対する法執行」と発表し、日本は「領海侵入」と発表した。同じ海で、二つの法が執行されているのである。
これは例外的な事件ではない。2025年の一年間だけで、中国海警船の接続水域内の航行は356日確認された。尖閣で日々向き合っているのは中国海警と海上保安庁、すなわち法執行機関同士であり、双方は各自の国内法に基づいて行動し、相手に向けた措置を武力行使ではなく主権の行使と位置づける。退くことが管轄権の放棄と読まれる以上、状況が悪化しても後退の名分を見出しにくい。
観光客は戻り、水産物の輸入は再開される。それが威圧の文法である。しかし、事故に文法はない。
仲介者ではなく、制度の供給者として
韓国の役割を「仲介」と規定した瞬間、議論は袋小路に入る。韓国は尖閣諸島にも台湾海峡にも実質的なレバレッジを持たない。仲介を自任する態度は、直ちに等距離外交という疑念を招くだけである。
しかし、まさにその非当事者性が、別の種類の資格を生む。韓国は尖閣の領有権をめぐる紛争の当事者ではないがゆえに、紛争の帰属には一切触れずに、接触面のみを規律しようと提案することができる。当事国が同じ提案をすれば交渉カードと読まれるが、非当事国の提案は手続きの問題にとどまる。
韓国は2026年1月に北京で、5月に安東で、中国と日本それぞれの首脳と会談した。北東アジアにおいて双方と首脳チャネルを維持している国は韓国だけである。そして、中国と日本の間にだけ、そのチャネルがない。
韓国が供給できる制度は二つの層位から成る。事故を防ぐ装置と、誤算を防ぐ装置である。
第一層は、海上における遭遇手続きの規範化である。尖閣で向き合うのは海軍ではなく海警と海上保安庁である。海軍間の遭遇に適用される国際規範は、法執行機関には及ばない。規範が最も必要とされる場所に、規範がないのである。
必要なのは、海上法執行機関間の遭遇手続きを規律する規範である。通信手続きの標準化、接近距離や放水・船体接触など強制措置の段階的制限、事案発生時の相互通報義務。いずれの項目も、領有権の帰属については何も語らない。
そして韓国は、これが可能であることをすでに示している。黄海の排他的経済水域の境界は、2015年以来15回に及ぶ局長級会談にもかかわらず、いまだ画定されていない。海上構造物や違法操業をめぐる摩擦も現在進行形である。それでも中韓両国は2019年に局長級の海洋協力対話を新設し、2025年には海洋秩序と実質協力の二つの分科委員会を発足させた。さらに2026年6月の大連実務会議において、両国は暫定措置水域での共同巡視に合意し、漁業取締の担当官が相手国の取締船に相互乗船することまで取り決めた。
境界に合意できていない二つの国が、その境界の上で共に巡視することにしたのである。帰属の問題を未決のままにして、接触面の手続きに合意することは可能である。韓国はその命題を、理論ではなく実務で立証してきた。尖閣に必要なものも、これと変わらない。
第二層は、中立的な対話空間の提供である。2005年以来、政府間関係が冷え込んだ時期にも維持されてきた日中最大のトラック2である東京—北京フォーラムが、2025年11月、中国側の要請により延期された。対立に備えて作られた装置が、対立が来た途端に止まったのである。
原因はチャネルの設計にある。二国間のトラック2は、どちらか一方が扉を閉ざせば、チャネルそのものが消える。第三国が開催地となるべき理由がここにある。韓国は両国の学界・言論界とそれぞれ厚い交流網を持ちながら、尖閣・台湾問題の当事者ではなく、開催の事実自体がいずれかへの支持と解釈されることもない。即時の成果のためではない。対立が誤算へと拡大するのを防ぐ安全弁としてである。
手続きの蓄積
管理された戦略競争の論理は、日中にも適用され得る。ただし、その手続きは誰かが作らなければならず、当事者たちは今、それを作れる状態にない。
韓国の役割には明白な限界がある。台湾問題について韓国は原則的立場を維持するほかなく、米韓同盟および日韓安全保障協力との整合性の中でしか動けない。この制約を否定するいかなる構想も実現しない。
警戒すべき視角もある。中国の対日圧力が韓国に漁夫の利をもたらすという見方も、抗日という歴史的連帯を媒介に韓国を引き寄せようとする中国の思惑も、同じ理由で退けなければならない。いずれも韓国を対立の傍観者か受益者にしてしまうものであり、傍観者は手続きを提案する資格を失う。
しかし、限界を認めることと、何もしないことは別である。
韓国が提供すべきは立場ではなく手続きである。対立の是非を裁く席に着くのではなく、対立が爆発しないよう繋ぎ止める手続きを設計し、提案する席に着くことである。韓国の役割は、日本の安全保障政策を制約することではない。日本が負うべき危機管理の費用を、地域で分担することである。
平和とは紛争が消えた状態ではなく、紛争が存在してもなお統制されている状態である。その統制を可能にするのは、善意ではなく、積み重ねられた手続きだけである。